・道新カルチャーplus 沼山良明の「されど音楽」vol.8



 先鋭的な音楽フェスティバルでは、複数の異なる個性の新しいグループを同時に聴くことで、音楽への興味と視野を一気に広めることができる。
 NMAでは80年代から90年代にかけて、計6回の「ナウミュージック・フェスティバル」を開催してきた。もちろん先に書いたドイツのメールス・ニュージャズ祭をモデルにしたのだが、集客が思い通りに伸びず、残念ながら97年を最後に力尽きてしまった。しかし東京や海外などから、一日に5グループほどを招いたフェスティバルでは、忘れられない様々なドラマがあった。
 初回の86年では、たまたま来日中だったベーシストのペーター・コバルトが飛び入りで出演したいと言って来てくれた。観客は200人足らずだったので、20数人のギャラと飛行機代などで大赤字確定。後片付けを終えてすでに盛り上がっている打ち上げ会場に着き、コバルトにもお礼と言って封筒を差し出すと、「沼山さん大変だったんでしょう」と受け取らなかった彼の温かい言葉に涙が止まらなかったことは、継続への大きな力になった。
 90年代半ばには環境に恵まれた札幌芸術の森アリーナに会場を移して4回開催した。
 フェスティバルではミュージシャンと相談しながら、札幌初演となる新しいグループで出演してもらうよう心掛けていたので、そのグループやそこで出会ったミュージシャンがさらに新しいグループを結成して、メールスなど海外のフェスティバルに出演するきっかけになったことも度々あった。
 札幌発の先鋭的な音楽イベントとして定着するまであと一歩ではあったが、この貴重な経験は残りの人生のどこかで役に立てればいいと思う。
(NMA音楽プロデューサー)

・道新カルチャーplus 沼山良明の「されど音楽」vol.7



 道南福島町の福島大神宮境内土俵を舞台に、今年で20回目となる「かがり火コンサート」が開かれる。
 ことの始まりは今から20年前、NMAライブの常連で札幌の染色家長谷川雅志さんから突然電話があり、「いま福島大神宮にいる。社殿で布の個展をやることになったけど、お客さんは来るはずもないので、常磐井宮司さんと相談し面白いライブをやろう!ということになったので、企画をやってほしい」という。彼は大の祭り好きで、毎年檜山管内江差町の姥神大神宮の祭りに御輿を担ぎに行っており、宮司さんと意気投合したという。もちろん面白そうなので即答、他の町では見られないようなクリエイティブで個性的なミュージシャンを、東京などから迎え、札幌から福島町に通っている。
 コンサートは町の有志による実行委員会の手作りで、3回目からは新しくなった土俵を舞台にしている。樹齢500年を超える樹木が生い茂る境内への坂道にはろうそくが灯り、ステージの両脇に焚いたかがり火のはぜる音とセミの声。そこに毎年3カ月余かけて制作する長谷川さんの布のインスタレーションが背景を彩り、絶妙な雰囲気を醸し出す。
 宮司さんは神楽の名手なので、前座で松前神楽を披露するよう勧め、2000年から奏上することになった。すると翌年から中高生らが志願して一気に若返り、08年に急逝した宮司さんを継いだご子息の新宮司を中心に、はつらつとした舞を披露している。
 また07年からは、前年のコンサートを見てハマッてしまった、友人で著名なデザイナー市川義一さんが、毎回フライヤーを一手に引き受けてくれる嬉しいハプニングもあった。
 今年は7月4日、伝説的な前衛バンド「ヒカシュー」が出演する。

(NMA音楽プロデューサー)

・道新カルチャーplus 沼山良明の「されど音楽」vol.6



 アイドル天野アキを演じる能年玲奈がお茶の間を沸かせた、NHKの朝ドラ「あまちゃん」が終わってもう一年半になるが、4月6日からBSで再放送が始まっている。当時「あまロス症候群」といわれた熱烈なファンにとっては嬉しい。
 ドラマで音楽を担当したのはギター&ターンテーブル奏者で作曲家の大友良英で、軽快で親しみやすいテーマ曲は早速夏の甲子園のスタンドに響き渡った。
 その大友良英とNMAとの出会いは、今から30年ほど前の84年、「孤高のギタリスト」といわれた高柳昌行の北海道ツアーに助手として同行したことがきっかけで、当時彼は25歳という若さだった。札幌でのライブの夜、ホテル代を節約するために、当時一人暮らしの僕の部屋に彼だけ泊まることになり、音楽談義が尽きなかった。その真摯な姿に「ただの青年ではないぞ!」と予感した。
 それから間もなく「ジャズライフ」誌で世界最先端の音楽を紹介する彼の連載を読み、度々手紙とともに送られてくるカセットテープで彼の音楽を聴き、ますますその非凡な才能に惹かれるようになった。
 やがて5年が過ぎたある日「ラテンバンドのトラ(エキストラ)で北海道に行くついでに、今の僕の音楽を聴いてもらえませんか!」と手紙が届き、90年3月5日札幌初のライブをソロで開いた。客席はなんと10人ほど。まな板にネックを付けて弦を張った自作ギターとターンテーブルを、凶暴なまでに駆使した世界最先端のノイズミュージックに圧倒された。
 こうして大友良英とNMAの関係は始まり、テレビやラジオで引っ張りだこになった今も、ライブではつねに新しい音楽を聴かせてくれる。

  (NMA音楽プロデューサー)

・道新カルチャーplus 沼山良明の「されど音楽」vol.5




 僕が主宰するNMAの活動は、その時代の世界の新しい音楽を札幌で紹介したいという衝動で、1983年からコンサートを企画開催し、道内各地でも開催している。
 紹介しているのは、即興音楽、ニュージャズ、現代音楽、電子音楽、ノイズミュージックなど、あらゆるジャンルの要素を含みながら、カテゴリーでくくることのできない国内外のミュージシャンたちで、その多くが即興性にあふれた音楽である。それらはまだ一般に認知される前の音楽なので、集客が難しく赤字になることが多く、その赤字を本業のピアノ調律で穴埋めしてきたが、カッコ良く言えば大好きな音楽への恩返しかも知れない。
 その中には、90年頃からギター&ターンテーブル奏者として世界で活躍し、NHKの朝ドラ「あまちゃん」の音楽で有名になった大友良英がいる。また、80年代にパリから帰国した即興ピアニスト加古隆とは、数回北海道ツアーを共にし、後にNHKスペシャル「映像の世紀」の作曲家として知られるようになった。その他にも出会った素晴らしい音楽家は数え切れなく、僕の人生において何にも代えがたい貴重な財産となっている。
 個性を存分に発揮し合いかつ協調しながら創造する「即興音楽」、それは各々が互いの存在を認め合う共同作業であり、私たちの社会生活の原点が反映凝縮されていると思う。
 めまぐるしく発展した物質文化と共存できずに置き去られた「心」、そのアンバランスから生じるさまざまな矛盾や歪が噴出している現実の中で、安らぎや娯楽だけでなく、自己啓発を喚起させられるような能動的な関わり方と楽しみ方も、音楽の大きな魅力だと信じて活動を続けたい。
   (NMA音楽プロデューサー)

・道新カルチャーplus 沼山良明の「されど音楽」vol.4



 昨年1月に親しい若者達と妻が幹事となり、僕の古希を祝って身に余るパーティーを開いてくれた。サプライズのビデオメッセージは、どれも涙が出るほど嬉しかった。その中にニューヨークのサックス奏者吉田ののことジョン・ゾーンのメッセージがあった。ジョンは「沼さーん70歳おめでとー」と流暢な日本語で。
 ののこを知ったのは15年前、彼女はまだ中学生で、岩見沢の自宅にピアノの調律に伺った時だった。高校生になる頃サックスの先生について相談を受け、最も信頼している小樽の奥野義典さんを紹介した。やがて高3になり進路について迷っているとき、「東京に出るのもいいけど、ニューヨークやヨーロッパもあるよ」と提案したところ、後日ニューヨークへ行くことに決めたという。
 ニューヨークへ旅立つにあたり、「向こうで困ったことがあったら訪ねてみたら」とピアニストの藤山裕子さんを紹介したところ、渡米後間もなく藤山さんと会い、その足でニューヨークで最先端の音楽を聴かせるライブハウス「ザ・ストーン」に連れて行かれたと聞いて彼女の運命を予感した。運営しているのはジョン・ゾーン!ジョンは前にも述べたがドイツのメールス・ニュージャズ祭で、僕が2度も衝撃を受けた有名なサックス奏者でありプロデューサーなのだ。また84年と85年に札幌に招きライブを開いたこともある。
 ののこは学校に通いながら、ザ・ストーンのスタッフとして修行を積み、数年前に自己のグループでメールスにも出演するほどに急成長した。
 その彼女が帰省中の今月29日に、札幌でソロ・ライブをやるというので楽しみであり、さらに大きく飛翔してほしいと心から願っている。

(NMA音楽プロデューサー)

・道新カルチャーplus 沼山良明の「されど音楽」vol.3



 2011年3月11日の東日本大震災で、福島は津波被害に加えて原発事故による放射能汚染という不条理な未曾有の事態に見舞われた。
 その年の8月、大友良英遠藤ミチロウら福島ゆかりの音楽家と詩人を代表に、「フクシマ」をポジティブな言葉に変えて世界に発信しようと、まだ放射線量の高い福島市郊外の四季の里公園で「フェスティバルFUKUSHIMA!」が開かれた。芝生には放射性物質の飛散を防ぐため、全国から集まった風呂敷や布きれを縫い合わせた「大風呂敷」を敷きつめて。
 フェスティバルは以後形を変えつつも毎年8月に開かれており、翌12年僕はそれを見に福島へ行った。音楽家ジョン・ケージ生誕100年を記念したイベントが行われている東京サントリーホールと映像で結んでの公演。
 四季の里公園では、日没にかけて無数の光るオブジェが灯り、光を放つ連凧が上空に舞う中、楽器や鳴り物を持参した200名を超える「オーケストラFUKUSHIMA!」による、大友良英作曲「マッシュルーム・レクイエム」の演奏が行われた。指揮は大友良英と応援に駆けつけた坂本龍一のほか、次々に入れ替わって誰もが指揮者になれる。そこから生まれる音楽は荘厳であり、ジョン・ケージへのオマージュであり、震災で犠牲になった人々にも捧げられているようで感動した。
 昼間はレンタカーで、津波で跡形も無くなった南相馬市沿岸部や、放射能で汚染され無人化した飯舘村を回ると、その惨状に妻が涙ぐむほどだった。
 昨年秋に再び訪れると、南相馬ではまちづくりのためのかさ上げ工事に目を見張り、飯舘村では除染された汚染土の黒い袋が山積みされている光景に心が痛んだ。震災から4年、東北や福島のことを風化させてはならない。

(NMA音楽プロデューサー)

・道新カルチャーplus 沼山良明の「されど音楽」vol.2


 国内外の先鋭的な音楽を紹介するNMA活動の原点となるメールス・ニュージャズ・フェスティバルを見に行ったのは83年5月だった。
 メールス市はドイツ北西部のルール工業地帯に位置する人口10万人の小さな美しい町。その郊外に広がる広大な公園内には、キャンピングカーや露店がひしめき、フェスティバルのムードを盛り上げている。その一角に設けられた巨大なサーカステントが会場だ。
 4日間のフェスティバルは、世界中から20グループほどが出演。午後2時に始まり終演は深夜0時を回ることもあるので体力も要する。
 いずれも独創的または実験的な音楽ばかりで、当時の日本の雑誌などに全く情報のなかったジョン・ゾーンら、世界最先端のグループやミュージシャンが次々とアナウンスされると、8千人の聴衆から大歓声があがるのだ!なぜだ!その謎は演奏が始まると納得させられた。日本から出場した「ドクトル梅津バンド」の熱演には2度のアンコールにも歓声が鳴りやまず瞼が潤んできた。
 フェスティバルの翌日、プロデューサーのブーカルトさん、評論家の副島輝人さんと一緒に、資金援助している市の窓口役である文化局長の自宅に招待された。彼はベートーベンのレコードをかけながら「ブーカルトを信頼しているので、市はカネを出すが口は出さない」と言う。音楽の伝統ある国ドイツの小都市から、未来へ向けて新しい音楽を発信しようという姿勢に感銘を受けた。
 この刺激的で貴重な体験は、同年に発足させたNMAの活動で、「札幌に新しい音楽の魅力を伝え発信したい!」というエネルギー源となって、30年を経た今も息づいている。
   (NMA音楽プロデューサー)