・訃報 1月13日

NMA2006-01-14


ピアニスト本田竹廣さんが、12日他界されました。
97年に病に倒れましたが、ピアノが弾きたい一心でリハビリの末、奇跡の復帰を果たしていました。

初めて本田さんのアルバムを聴いたのは70年代初め「ザ・トリオ」だったと思う。パワフルかつ叙情的で自由奔放な「日本のジャズ」に惹かれ、次々とLPを買いました。

昔、僕が岩見沢市に住んでいた当時「岩見沢モダンジャズクラブ」で活動していた74年に「渡辺貞夫カルテット」のメンバーで初めて本田さんに会ったときのことです。コンサート当日の朝、10時に市民会館にピアノの調律に行くと、もうすでに本田さんがピアノを弾いていました。僕は「リハの前にやるので弾いててください」というと、3時ころまで延々と弾き続けていていたのが初対面の強烈な印象でした。

83年に上京したとき、高円寺の次郎吉で古沢さんのライブが終わったころ本田さんや峰さんたちが現れ、みんなで呑みに行き最後はギタリストの大出さんのマンションだったと思います。朝まで呑んで新宿のホテルに帰ろうとしましたが、「沼ちゃん泊まってけよ!」と本田さんに誘われるまま、チャリンコを押す人なつっこい本田さんと一緒に夜が明けた住宅街を歩いたのが忘れられません。

最近では札幌のライブハウス「くう」で2、3度お会いした程度だったけど、復帰して徐々に元気を取り戻していたようで安堵していましたがとても残念です。
70年代「日本のジャズ」を確立した重鎮のひとり本田竹廣さんのご冥福を心からお祈りします。

写真は1977年の「渡辺貞夫カルテット」の際、
岩見沢のジャズ喫茶「志乃」で僕が撮った写真です。
「志乃」と「ゴヤ」のママとして大勢のミュージシャンたちに慕われた永原秀子さんも2003年に他界し、我々の歴史も一つ一つ失われていくような寂しさを感じます。
我々は与えられている人生を大切にするよう精進しなければと思います。

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